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三十三間堂
JR京都駅北の七条通を東に約2.5`進んだ鴨川の東、京都国立博物館の南に三十三間堂はある。南北に長い本堂の柱間が33あるので「三十三間堂」と呼ばれるが、実際には本堂は120bの長さがあり、1間=1.8bで換算すると、倍の「六十六間堂」ということになる。正式には蓮華王院という名の天台宗の寺院で、1164年に後白河上皇が平清盛に命じて造らせたが、
度重なる震災で本堂とともに建っていた五重塔や不動堂などはすべて失われ、現在の本堂は鎌倉時代の1266年に再建されたものだ。
三十三間堂の堂内は十一面千手千眼観音像1001体が埋め尽くしている。中央に国宝の千手観音坐像、左右に立像が10段50列、計500体ずつ並んでいる。この1001体の観音像には、祈る人が会いたいと願う相手の顔が必ずあると伝えられているという。
さて、三十三間堂といえば「通し矢」である。毎年正月の2〜3週に本堂前の広場で行われる行事で、振袖姿の女性が弓を射ているのがテレビのニュースでおなじみだ。
だが、あの通し矢はいわば「普及版」で、標的までの距離も普通の弓道の遠的競技と同じ60b(約33間)である。江戸時代末まで武士が腕を競った通し矢は、三十三間堂の西側軒下を、南端から北端へと矢を射通す競技で、距離は66間ということになる。軒までの高さは約5b、矢を山なりに射ると軒に当たって届かない。そういう厳しい条件で、24時間矢を射続け、射通した矢の本数を競ったのが通し矢の起源である。徳川三代将軍家光の声掛かりで記録を額に掲げるようになったので、諸大名が必死で人材を発掘した。
紀州藩士の和佐大八郎が1686年4月27日に13053本を射て、8133本を射通したのが今も破られてない記録で、大八郎はその功で300石取りとなり、和歌山市の禰宜というところに墓所がある。6秒余に1本、まさに矢継ぎ早に矢を放った計算になる。
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